老大学生奮闘記#37 神とともに

 

 「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5章24節)

 

 僕は、神が実在し生きておられる方であることを信じており、聖書が魂の欲求に答える書であるという意味で「神のことば」であることを信じています。それにしても聖書には意味不明で信じ難いことも記されていることも確かです。

 例えば、この書に登場するほとんどの人は千年近くの長寿であることです。「あなたはこんなことを信じるのですか」と言われたから、「ちょっと待ってください」と言うでしょう。聖書が書かれた文化・時代・地域の違いがありますが、こうしたことから解釈の余地を残します。また、今では歴史的文学的解釈や心理学的解釈も許されています。それに聖書の傍系的なことは永遠のいのちとは無関係であることも確認されています。古代人のメンタルは現代人のメンタルと異なるということも事実です。こう言うことから僕は、神を信じ聖書を信じています、と言うことが出来ます。

 

 大切なことは聖書が語りかけるメッセージです。前々回、彼らは長寿であったとしてもその人生は無味乾燥したものであったと言うことを記しました。退屈は人間の退廃の根源です。時間を持て余すことが人にとって最も害あることです。次章で見ることになりますが、こうしたことが神の怒りと大洪水を招くことになりました。また前回、魂の渇きから「祈ること」が始まったことも記しました。少数ですがあらゆる時代を通して魂を気遣う人々がいるものです。こうした人がいる限り、宗教を根絶やしにすることはできません。アダムから始まってノアまでこのような人々が存在したのです。

 

 今回はエノクです。この人の寿命は365年でした。これを短命としておきましょう。そうであっても彼の人生は充実していました。「神とともに歩んだ」のです。魂はいのちの交わりを求めています。これが欠落すると底なしの孤独に陥るからです。これが「空しい」と言う経験の根です。いわゆる精神的飢餓状態です。人々は心の満たしを仕事に趣味に旅行スポーツに求めます。現在では、人の心を満たしているものはスマホであると言われています。事実、スマホは「神とともに歩む」ことの代替機として発明されたものでもあるのです。スマホのようなコンピュータ文化は「ユピキタス」と言われますが、これはラテン語の「遍在」を意味し、エノクの経験がそのモデルとなっているのです。

 

 神だけが人の心を満たすことが出来ます。これは人類の偉大な文明の一つの流れとなっています。この文明はエノク、ノア、アブラハム、そしてイスラエル民族の宗教文化となり、イエス・キリストを通して全世界に拡散し、現代に至っています。そしてあなたの手元に来ようとしているのです。

 

 

 

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