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老大学生奮闘記#29 言いわけ

 

「人は言った。『私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」(創世記3章12節)

 

 言いわけがましことは当然だと思っている人はそうおりません。ほとんどの人は恥ずかしいことだと思っていることでしょう。にも拘らず、何かまずい事態になった時にはよく見かけられる光景です。

 

 人はなぜ言い訳をするのでしょう。その源流がここにあります。そもそも裸であることを見られたことに恐怖を感じたのです。ここでの裸とは自分たちがしたことを見抜かれたという事、すなわち、心の中を見透かされたという思いです。

 

 ここでは、アダムはエバに責任を擦り付け、エバは誘惑者である蛇にお返ししました。蛇はもうそれをどこへの持っていくことができません。人は心の深く深いところで秘密を持っている。これが真相です。

 

 自分を知っておくことはとても大事なことです。人の心、すなわち私の心はアダム・エバの心と同じです。それを引きずっているとは全人類は同じと言うことです。

 

 次は主イエスのことばです。「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。」(マタイ15章19節)

 

 これは人の心をX線で投影するとこんなものが見えてくるというのです。認めたくないですね。

でも真実な生き方をしたいと思うなら認めるべきです。これを心の病とみるならまず正しい診断が下されなければなりません。そしてそれを受け入れたうえで、本当の心の医者に対して「どうぞお癒し下さい」と言わなければなりません。

 

 普通こうしたことは「罪」と言われます。

しかし心にウイルスが侵入して来てこうなったとするならこれは「病」です。癒していただかなければなりません。

しかし人はひた隠しに隠し、暴かれたとしても言いわけをします。

 

これに対しては「まことに私はそうです」と言わなければなりません。これを「悔い改め」と言います。何かまずいことが起こった時、言いわけをする前に自分の真相を知るべきだったのです。

 

もし自分の心がそのようであることを認め、救いを切に求めるなら、キリストによる罪の赦しは用意されているのです。 

 

 

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 協力牧師 Amos (A.S.S.)