「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」(創世記2章15節)
エデンの園で最初の夫婦が楽して遊んで暮らしたと考えるならそれは大いなる誤解です。「耕させ」はかなりの労働です。「守らせ」は管理能力を要求されます。彼らの園での使命は遣り甲斐のあるものであったと考えられます。
彼らはここで「神のかたち」に造られたことから来る、精神性、創造性を発揮することが出来ました。「今日はどうだったか」「明日はどうしよう」毎日毎日が充実していたことは間違いありません。なぜなら彼らの創意と工夫はそのまま結果に現れそれを喜ぶことが出来たからです。その相関関係は間違いなく狂いなく正確で計算通りに推移したことでしょう。園はまさに理想郷であったのです。
すべての存在は神の創造によって始まりました。人間が生きるべき環境としての自然は空間と時間と言う制約の中に置かれています。こうした制約は無意識によって翻弄されますが、意識によって克服されます。彼らは空間で圧倒されることなく、時間に追い立てられることなく、神に対する忠実と使命感によって園を守っていきました。園は日々変化していきました。すると、今度はこうしよう、次はこうしなければならない、と彼らがやらなければならないことは次から次とやってきました。これは精神性を与えられた人間にとって飽きることのないものであったと思われます。
もう一つ聖書記事を見ましょう。「人はすべての家畜、空の鳥、すべての獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。」(創世記2章20節)
人類は文明を発展させる段階で自然を利用し動物を家畜化して利用してきました。最近ではペットとして愛玩するまでになりました。
しかし、人が地の管理者であるとするなら、動物は助け手にはなりませんでした。こうした聖書の主張は、近代では非難の的となっています。人間と言えども他の動物と同様、進化の過程を辿ったという意味で自然の一部です。人間が特別優れているということは傲慢でしかないと。
しかし、地の管理者としての使命が与えられているとしたらどうでしょう。最近の環境問題は、特に温暖化問題をとれば地下資源を掘り起こした人間活動によることは疑いようがありません。動物は決して環境を破壊することはありません。なぜなら、彼らは彼らの心の空洞を自然資源で満たそうという意欲を持つことはないからです。
今から200年以上前、すなわち産業革命以前の人間一人当たりのエネルギー消費量を1とすれば、今の日本人のエネルギー消費量はその30倍です。これが何を意味するかを考えるために、一人が占有できる土地面積を出すと、地球面積を世界総人口で割ることですが、こうして一人の占有面積が出てきます。その面積が太陽から取得するエネルギーが算出できますが、2倍以上すなわち限度を超えているのです。文明人は過去のエネルギー・バッテリーを食い尽くしていることになるのです。こうして過剰にCO2を輩出し、これが環境を危機に追いやっていることは間違いありません。
「神のかたち」は今、人間の心に精神的空虚の原因ともなっているのです。このように現代的問題を分析し回答を得るためにも聖書研究は必須となっています。
協力牧師 Amos (A.S.S.)
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