前回は「無邪気」についてであったのに、今回は「人間の構造」とはと、題目があちこちに飛んでいることに戸惑われるかも知れませんが、この blog では必ずしも教科書のような書き方をしようと思っていません。
狙いははっきりしています。科学と宗教はすれ違うことなく全く別物なのか。理性と信仰が出会うことはあり得ないのかです。
このためには長い歴史を積み重ねてきた人類は何を求め何を考えどのような夢を抱きながら知恵を積み知識を蓄えてきたのかをたどることが重要です。
それは人類が保持し続けて来た言葉、築き上げてきた文化の中にあります。
それは用語の関連性をたどることでたどり着くものではないかと考えています。
このためには科学が誕生する以前に、迷信も含めた内面文化があったことをも考慮しなければなりません。
すなわち「無邪気」があれば「邪気」が出てきます。するとこうしたものを抱えている人間とは一体何者なのか知らなければなりません。
これは学問の世界では人体を知るためには生物学、内面を知るためには精神科学や心理学ということになりますが、外面的な目に見える部分についての考察はかなり核心に来ていますが目に見えない部分、人間の内面については手探りの状態で様々な学説が拮抗している状態です。
しかし、聖書に目を向けると、前回冒頭に掲げた創世記2章7節に人間は神によって創造されたもので大地のちりで外面が作られ息を吹き込まれて内面性をもち「生きるものとなった」と記されています。
現代人の頭では、こんな神話に基づく思考は無意味だと考えるかも知れませんが、ここには人間を「肉体と精神」または「肉と魂」の二面性があり、これを無視しては人間の本当の姿を捉えることは出来ない、という状況が見えてきています。
すなわち、「人間とは何か」を考えるとき、肉体の解剖だけでは見えてこない内面が潜んでいることは近年ますます明らかになりつつあります。
人間は栄養と水と空気、快適な環境があれば生きているものではなく、内面にも構造を持ち、理性では把握しきれない別の環境、これを聖書は「生きた言葉」(マタイの福音書4章4節参照)と言っていますが、こうした二つの欲求を持つ存在として捉える必要があるのです。
協力牧師 Amos (A.S.S.)
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