このブログで何を書きたいのかは、第一回ですでに書いたつもりでしたが、話題があちらこちらと散りじりになっていると思われたのか。「何を書いているのか」と言われましたので、ここで改めて整理しておこうと思います。
聖書と数学が何か関係しているのかと言うことですが、大体そう言う事です。でも数学そのものを問題にしているのではなく、今の教育が中学、高校卒業ころまでに数学的な思考法に慣れるようにもって行っているからです。このため、理性と信仰は別世界と思われるようになっています。
このブログで何を書きたいのかは、第一回ですでに書いたつもりでしたが、話題があちらこちらと散りじりになっていると思われたのか。「何を書いているのか」と言われましたので、ここで改めて整理しておこうと思います。
聖書と数学が何か関係しているのかと言うことですが、大体そう言う事です。でも数学そのものを問題にしているのではなく、今の教育が中学、高校卒業ころまでに数学的な思考法に慣れるようにもって行っているからです。このため、理性と信仰は別世界と思われるようになっています。
日本では大人たちもそうですが、子どもたちも現代教育のおかげで宗教心が全然育てられていません。
心の教育と言っても「心とは何か」が分かっていない。ほとんど迷走しているとしか思われません。これは宗教を蔑ろにした結果としか言いようがありません。
これは教会やお寺の責任でもあるのですが、昔(僕の20代30代の頃)は教会に子どもが溢れていました。でも今は子どもたちの姿が消えてしまっています。僕の経験では昔は学校の前で教会学校のチラシを配れば子どもたちが来てくれました。しかしいつの頃からか先生が校門前に立っていて、そういうことが許されなくなってしまいました。
歴史を調べると、日本でも欧米でも教育を先導していたのは宗教でした。ところが世の中を進歩させているのは科学技術だということが分かって来て、科学的な考え方(数学的な思考法)が重んじられるようになりました。これでは唯物論的(非宗教的)にしか世界は見えなくなってしまいます。この頭脳で世界を見れば、神はどこにいるのかとなり、宗教心の育てようがなくなってしまいます。するとどういうことが言えるでしょう。数学的な思考法によって唯物論的な見方を育ててしまったということになります。
こうした三竦み(さんすくみ)状態に風穴を開けたい。これがこのブログ狙いです。数学では物事を単純化してから思考を始めます。たとえば1と言えば、一匹一本一人一番と何にでも当てはめて考えることが出来ます。ですから世界を考える場合、○でよいのです。この方法で神を現わそうとすると、□でよいことになります。すると聖書は世界○をどう見ているのかを論じることが出来るようになります。この続きは次回に書くことにします。
協力牧師 Amos (A.S.S.)
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