僕がキリストを救い主として信じ、洗礼を受けたのは1958年17才高校生の時でした。
やがて牧師養成学校での訓練を受け教会に派遣されて伝道を始めた時は24才となっていました。
73才の時に教会での責任が下ろされましたので、在職中かねてから懸案となっていた課題に取り組むことを思い立ちました。
それは今からかれこれ30年かそれ以上も前のことでしたが、岐阜から浦和の教会へ転任となってしばらくして、友人牧師とともに古本市場に立ち寄った時のことでした。
立っていたのは100円コーナーの書棚の前でした。その時、一冊の本に目が留まりました。
「ホーキング宇宙を語る――ビッグバンからブラックホールまで――」
宇宙と聞けば聖書を読んでいる者なら天地創造を思い浮かべます。
神がみ言葉でもって6日間で天地を作り7日目に休まれたという創世記1,2章の記事です。
信仰者なら目撃した訳でもないにも関わらず、「神が天地を造られたのだ」と信仰を持って受け取ります。
信仰者のみならず物理学者と言えども、宇宙がどうして存在しているのか、その始まりがどのようであったのか知る由はないはずです。
ですから信じる者は信じるでしょうし、信じない者は信じることができない。この点においては両成敗です。
ところがホーキングはこの本で、「宇宙はどこから来たのか」という難問と取り組んでいます。
もしここで、「天地」を「宇宙」に置き換えてもよいとするなら、信仰の問題を物理の問題としようとしていることになります。
そんなことがどうしてできるのか。そこにどんな物理理論があるのか。胸騒ぎが治まらないまま読み進んでいくと、序文を寄せているカール・セーガンのことばとして、以下の文がありました。
「…これはまた、神についての書物である――ひょっとすると、神不在についての本かも知れないが。いたるところに神ということばが現れる。宇宙を創造するとき、神にはどんな選択の幅があったのか、と言うアインシュタインの有名な問いに答えるべく、ホーキングは探求の旅に出た。……この努力から導かれた結論は全く予想外のことだった――空間的に果てがなく、時間的に始まりも終わりもなく、創造者の出番のない宇宙。」
この時、伝道生涯の締め括りとして僕のやるべきことは決まりました。この予想外の結論にどんな物理理論が存在するのか。そのためには大学に入って勉強しよう。2009年放送大学への道に進むこととなりました。
今年僕は82才となりました。この年になって宇宙の勉強を始めたところ、なんとそれは拡大して物理学、数学、科学哲学史、ギリシャ哲学、近代哲学へとどんどんと触手が伸びてきました。思いもよらないスリリングの毎日でした。
信仰者の思考法は「鷲のごとく」です。聖書の翼に乗って世界を魂を天を地を語ることができます。
ところが科学の思考法はそうではありません。観測・実験、分析・計算、推論・定式へと進んでいきます。
まるで毛虫の歩みです。この作法を守らなければ科学と言えないのです。
ですからこれに従いながら思考していかなければなりません。こうしてもう10年近くなりますが、この経験の披露の時が与えられたことを感謝し進めさせていただきたく思います。
インマヌエル浦和キリスト教会
協力牧師 新垣重夫
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